2016年4月16日土曜日

現代都市政策研究会2016年2月例会感想


(2016年2月例会感想)

 

栗林知絵子さんの「子どもの貧困を考える~NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワークの活動を通じて見えてくるもの~」を聞いて
                                   H. S.

栗林さんがボランティアをしていた豊島区のプレイパークに子どもが来ていた。平林さんは普通の子どもだと思っていた。しかし、彼が夕方1人でいる時に話してくれて初めて家庭の貧困が分かったのだった。服装などではとても貧困とわからない子どもがいる。これは我々が藤田孝典さんに生活困窮者の話を伺ったときと同じだ。目に見えないところで、栗林さんのいう「相対的貧困」が増加している。その子が高校受験するならとおせっかいで学習支援を始めた。それが子どもに一緒に食事をさせる機会になり、友人の協力もあって、自然に「子ども食堂」活動になっていった。

 栗林さんは「困った子」がいるのではなく、実は「困っている子」なのだと見抜く。せっかく高校に入ってもタバコを吸った学生のそばにいただけで停学させられ、それをきっかけに退学する子がいる。普通なら「うちの子はタバコを吸っていないのになんで停学なのか」と文句を言うだろうが、親はうつ病で口もよくきけず無気力になっていた。そうした家庭の貧困が不登校や退学の原因にある。

せめていっしょに食事をすることでと始めた「子ども食堂」が全国に広がっている。栗林さんの元気さと明るさ。そして、いろんな立場で対立する政治に巻き込まれない知恵があってのことだと思う。

行政に対しても、「脱専門職=おばちゃん」の提案をしている。先生たちが子どもをなんとか相談室までいくところまで来たとして、そこに元校長が座っていては不登校の子や困っている子は相談しない。心を開かないのだ。よりそうだけのおばちゃんが、まず必要だ。行政は情報を持っているから、つれてきてくれるだけでいい。「教育センターでなくて子ども食堂に連れてきてくれるだけでいい」この割り切りが、全国で子ども食堂の活動が進む説得力になっていると感じた。

私は、子ども食堂の話を聞いて、かつての学童保育運動を思い出した。

学童保育は、共働きが進む都市部での子どもの居場所、安全をどうするのかという運動である。昭和40年代からの急進する都市化と家庭からの女性労働力の提供が原因であり、制度化を要求した。「ポストの数ほど保育所を」と同様にキャッチアップ型政策の不備への親たちの自助運動だった。

○互助型、ゆたかな社会への移行

一方、「子ども食堂」は、栗林さんが再三指摘するように相対的貧困が生む子ども環境の悪化へ、一定の持てる層、志ある人の支援を基底にした活動である。支援型であるためにリソースは多様に得ることができる。しかし、参加の敷居が高ければ支援は集まらない。きっかけとなった栗林さんの行動も、子どもの一言が始まりだったし、「食べる」という専門性を必要としないテーマが多数の共感を呼んでいる。しかも、党派性と切れた部分での活動を貫く戦略も明快であり、自治体への広がりを見せている。

○支援型、脱専門性(「食」という理解のしやすさ)、脱党派性

 だから、制度化を要求しない活動が成功している。しかし、貧困が原因であるなら、「子ども食堂」は最終的な解決策、出口でないことは活動している方々が感じているだろう。

 行政組織は、「自助→共助→公助」というスローガンで自助を強調しながら、その一方で、非正規雇用(非常勤職員の多様)、委託化(指定管理者、独立行政法人)を拡大した。そして、委託先の専門性に頼るだけで、抜けモレをチェックできない機構に転じつつある。これには、直接サービス提供の廃止が「よいこと」という神話を住民が受け入れている事実がある。その中で、住民が、たとえ委託しても、公的なチェックをしてくれるだろうという期待に応えられない行政の劣化が進んでいる。それはなぜか。検証、チェックによる外部機関を保証する能力は、現場体験や委託先を上回る高い専門知識がなければ維持できない(言い負かされてしまうから)が、これにかかるコストまでも削減してしまい、契約を金銭支出面でチェックすることに留まってしまうからだ。

一方で企業も、安定性から国際競争のための人件費削減へシフトすることを「よいこと」として、株主からの評価を優先してきた。もし社会(この場合は国家)がそれを言祝ぐならば、もっと多くの税を負担してもらい、企業ではなく社会の責任として、子どもや貧困家庭に対する生活基盤の提供をしなければ労働の再生産という産業論理だって完結しないだろう。


 最後に、栗林さんが「ウォシュレットは最初、障害のある方のために作られ売れなかったが、今では誰もが使いやすい商品として4000万台も売れるようになった。誰もが同じサービスを受けることがよいのだ」という指摘はサービスの本質を現していると思った。

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